対等をめざした(のかもしれない)

明和電機のファンになってから。鑑賞者の問題についてときどき考えるようになりました。
シノモリ先生が仰られてたという、「作品と対峙するとき鑑賞者は作家と対等」。という概念が気にかかります。
 
現代アートに興味なかったのにそんなことをあれこれ考える資格や必要性があるのか、というもっともなそもそも論は置いておきます;
 
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美術館やギャラリーで、当方は、ただただ自分の嗜好に照らし合わせながらに安易に見ているだけ。
それで鑑賞しているつもりでいます。
 
これよいなー、とか、これ好きだー、とかひらめくように直感した作品については。
なるべく素朴に、より集中して見て、作家が表現しているものの本質に近づきたいと思うけれど。
 
眼は無意識かつ無意識でない双方の偏見に濡れて曇っている訳で。
 
本質に近づけているのでしょうか。
 
作家が作品にかけたエネルギーや時間や精神活動の深さと比較すると。
そもそも、費やしているものの量や質がささやかすぎます。
 
作家と対等な位置に存在しているとは全く思えない、自分。
 
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古典についてなら。
 古いものって素敵。きれいー。テクニックすごいー。この作品がうまれた背景って興味深いよねえ。
という、みーはーぱわーで鑑賞態度を乗り切れるのですが。(対等とか以前ですが;)
 
現代アート
同じ社会のなかで生存者としての(亡くなっていても)作家と対峙してると思うと、たじろぎます。
 
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肺魚】を操作する社長、をガラス瓶に閉じ込めよう。
 
などと不遜なことを考えたのは。
 
 明和電機初期【魚器】。その「残酷性」から賛否両論あるという、コンセプトと見え方が不思議な作品。
 鑑賞の仕方難しい〜。正解がわからないよ〜。
 
 ・・・ならガラス瓶に入れて観察してみようか。
 
みたいな気持ちからのように思います。
 
社長はもう魚殺しのパフォーマンスはされない。
其処へ。わたしは行きたいけれど行けない。
 
 では。想像のうえだけでも当時の副社長と対峙するために。
 世界を入れ子にして、関係を転回。
 
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対等、を考えていても。
妄想は明後日の方向へ。