時間あれこれ: 機械と「時間」

独り暮らしでがんがん部屋で音楽をかけていた頃、音楽を載せわたしたちに伝えてくれる「時間」の不思議さに、ふと唐突に思い至って感動したことがあります。
音楽のある生活復活宣言(?)を記念して、最近「時間」について、薄い素養のうえでとりとめなくよろよろ考えたことを記しておこうと思います。
 
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カントによると(他の哲学者の思想には疎いの)。
カントはその認識論のなかで、「時間」とは「空間」と共に、感性的直感の純粋形式であり。あらゆる現象のアプリオリな感性的、形式的制約である。と述べています。
「空間」が外的に直感される認識であるのとは違い、「時間」は内的な直感による認識だとも。
 
多少、あやふやな気持ちは残りますが、理解できる気がします。
 
明和電機」社長:土佐信道さんが、以前、Twitter で興味深いことをつぶやかれていました。
映像も文学も「時間」を表現できるけれど、機械は「時間」を表現しない・・・、というような内容です。
twilog を検索して見つけ出しました。5月でしたね。

機械芸術に完全に欠落していのは「時間」である。文学や映像表現にある編集とか記憶との駆け引きとか、そういうものは厳密な一つの部品を作るために排除してしまう。それをエンジニアは厳密性ととらえるが、一種の欠落である。ゆえに精度をあげられるのだが。

機械にも運動があるので時間があるじゃないか、は根本的なまちがい。我々が馴染んでいる時間の大半はきかいが作りだしたものなのだ。

 
意表をついていて、おもしろいと思いましたー。
芸術表現における「時間」の存在/欠落とは、どういうことを意味されたのでしょう。
 
物理学を少しだけでも齧ると(ニュートン力学でも、相対性理論でも)。つい、時間は変数:tとして表現できると安易に納得。それに安心し、「時間」認識についての不可思議を置き去りにしたまま、安住してしまいそうです。でも。
 
文学や映像が表現する「時間」。それは人間が本能的に認識し、体験している「時間」のことでしょう。変数:tとして表現される「空間化された時間」とは、そもそも別物。
そして、もちろん、内的に認識/体験される「時間」しか、わたしたちは本能的に感じられません。「t:時間」は、副次的に理性が獲得する概念ですから。
そういうことを、自分は自覚的にきちんと考えたことがない気がしました。
 
「時間を表現する」とは。編集・・・記憶との駆け引き・・・。つまり、文学や映像表現においては、「時間」という内的印象を再構成し、象徴的に観賞者へ対して提示できる、ということではないでしょうか?
 
一方、機械は時間軸に沿って作動。
わたしたちはそれを見て、その前後(過去/未来)を予想したり思い出したりするけれど。それは単に観察の結果であって。
社長がつぶやかれたように、機械自体は「時間」を表現しません。少なくとも、システム(機構)としての機械は。
 
・・・多分、そのとおりだと思います。