科学が表出するときの前提

背景としてずっと以前から存在しているけれど、自分の立ち位置からはるかにしか見えないもの。芸術と科学、それぞれに対して、みーはーなあこがれの気持ちを強く持っていました。子供のころから。
その思いは独立していました。芸術と科学へのあこがれはすっきりふたつの山に分かれ、別個のもの。重ねようはありませんでした。
 
最近になり、時々、芸術と科学を「絡めて」考えることがあります。ちょろちょろ安易にネットでキーワード検索したり。
恥ずかしながら、今年、ICCやアルスエレクトロニカ展に行き、初めて見る種類のものに刺激を受けたからでしょう。つまり、「明和電機」のせいですね;(単純なハム脳ー!)
 
芸術的な表現衝動を持つ作家が、その作品の表出に科学や科学技術を用いるケース。
うまく機能しているそれらに触れるとき、作家の科学技術に対する誠意を感じます。たとえ作品のテーマが、技術や文明に揶揄的なものであっても。
作品として形にする段階で、それはもう物理的な強制力として、理性は科学をなぞらなければならないのですから、「誠意」の存在は当然なのかもしれません。
理性の働きの強力な芸術家・表現者が、科学技術を表現手段として有効に用いれば、その表出のあり方の可能性は大きく広がっていく。時代の中で、当然で、正しい流れですねっ。嬉っ。
 
逆のケース。これは単純でない気がします。
科学・工学方面の専門家が、芸術の分野へ股をかけるように提示する「作品」に、落ち着きの悪さを感じることがありました。鑑賞上の「違和感」などではなく、手法への「誠意」の欠如がもたらす感じ悪さというか・・・。 もちろん、ごく一部の例なのですが。
(ごく少ない手持ちのサンプルを見ながらの感想で、恐縮です。)
 
科学や科学的な論考の成果を提示する行為には、科学的な考え方の基本である「フェアさ」をまやかすことなく伴うことが、必須であると考えます。
芸術性を装い、成果を見せつけて人を驚かせようとか感じ入らせようとかケチな了見はいりません。それは芸術的表現衝動の発端にもなりえない。つまり、芸術側にも失礼な発想です。
詐欺をやっている場合ではないはず、と思ってしまうのです。
 
科学技術を表現・表出したものが、見る人の側のポエムを呼び、芸術性を帯びるのはとても素敵なことだと思います。自然を鑑賞する感覚にも共通する、わたしたちヒトという生命体が持つ、目的論への傾向をくすぐる感覚?
 
ただ、たとえ科学側・技術側が意図的に芸術性のようなものを狙い表出させるにしろ、その過程で必要な行為は、淡々と、成果をフェアに有効に伝える「手法」および「デザイン」を練りあげることにしかつきないのでは。
科学者あるいは技術者なら、自らの手法に確固とした誠意をもつこと。それは、鑑賞に耐えるものを立ち上げる以前の、最低条件だと思うのです。