ある妄想@新しい知覚?

鑑賞者は作者や作品へ自分を投影しながら見ることが多いと思います。
絵画でも立体作品でも。映像作品へ対しても。
 
<作者への自己投影>
 作品をつくった/描いた作者の思いを想像する。
 作者の制作中の「つくる快楽」を自分のものとして想像してみる。
 
<作品への自己投影>
 頭のなかで作品中の登場人物になってみる。また、描かれた風景のなかを歩く(ことを想像する)。静物に触れる。
 
素人考えかもしれませんが、そういう自己投影的な見方があったほうが、思い入れが生じ、「鑑賞状態」へはいりやすいです…。
 
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でも、そういえば明和電機の製品たちを見るとき。
当方はほとんど自己投影していません。作者へも作品へも。
 
作品がマシン系という疎い分野のモノだからかもしれないし。
また、作者の個性が強いから(!)、というのも一因としてありそうです。作者との共通項が自分にあるとは思えず、投影がはばかられ、という。
 
だからたぶん、明和製品に対してはきわめて「客観的」に見て、観察してきました。
 
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ファンになりたてのころ、《魚器》については、自分を作者へでも作品へでもなく、『魚』の存在へ投影しようと想像したことがありました。
http://d.hatena.ne.jp/Fumiba_m/20100318/1268860484
 
魚になって、制作当時の作者と対峙する。 …すこしMな自己投影妄想。
《魚器》に対しては、その試み(気分?願望?)が、あまり濃くならず淡く続いています。
 
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それとはまた別に。そして作者や作品への主体的な自己投影ではまったくなく。
 
ナンマシ展へ行ってから。そしてその後、展示や展示された製品たちのことをぼんやり考えながら。これまでは感じたことのない感覚(見方)が湧いてくる作品があるのでした。
特に《 WAHHA GO GO 》。 《プードルズヘッド》も。
(ナンマシ展以前にも会ったことがある製品たちなのだけれど。
 
どう表現すればいいのだろう…。
製品の内に、思いがけず自分が客観的に見えてしまった、ような感じ。。
 
それ《作品》は。
実は「わたしだったんだ。」
という気付き。
 
 この作品は最初から「わたし」として形つくられ。
 ずっと"自分"だった。
 
という、ほとんど確信。
 
つまり、
わたしがその「笑う機械」で。「笑う機械」はわたしで。
わたしが「噛み砕く顎」で。「噛み砕く顎」はわたしの姿そのもので。
 
これらの作品は、そうして形をつくられ。
わたしはそこ、作品のなかに存在してきた。
 
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ちょっと名づけようのない、時系列・空間的に整合しないおかしな妄想です…。
 
かのドゥルーズによると、注意深く再認しようとし、それに失敗すると発動する『第二の主体性』という「既存の知覚の体制を破壊するような知覚との出会い」があるそう。
 
ええと、たぶんかなり無理やりですが、上に述べた感覚は、そのような実践的認識の一種なのかもしれません…(小声。
 
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久しぶりに勝手にオタクギョしました。

長い魚
 

なんとなく見えた魚たち。以前に似た魚をかいたことがあるかもしれない…(記憶が薄れています;