魚になって

先日、夫から「魚になっちゃうよ」とからかわれ、
 魚になり土佐家の猫に食べられるのなら本望かもしれません。
とブログに書きました。
 
その思考の方向性は、冗談ではなく必然である気がしてきました。
 
「魚器リーズ」を牽引したいくつかの作品群を、実際には見たこともない自分がこの場からできるだけ純粋に想起しようとすれば。
初期「明和電機」、副社長:信道さんが必ず「そこ」に作家兼パフォーマーとしていらっしゃいます。その傍らに正道さんが見守っている気配も。
 
その場まで時間旅行して。そして、遠くからのただの俯瞰者であったわたしが、そこでできることといったら。
そこにいる生きている(あるいは死んでいる)魚に、自分を投影すること。
そして、作品の一部になりパフォーマンスを体験すること(体験している気になること)。
その位置から、一連の作品群を眺めること。
 
それはとても正しい鑑賞方法ではないでしょうか?
観念の上でだったら、ウケ-テルに入るし。頭のないコイにもなるし、血だらけの浮き袋にだってなるし、魚打棒のなかで濁った眼を見開いてもしまいます。

「魚器図鑑」を見ながらプラマンおえかき。PC上でちょっと追描。

(でも、「ウケ-テル」のなかで魚がどんな視覚を体験しているかをリアルに想像するのは難しいですね。あ、「ウオノメ」があれば想像しやすいかも?)